フィロカリア全巻解説:第2巻 霊(たましひ;プシュケー)が打ち砕かれる修行をする人々:第2章 克肖表信者聖マクシム (2026/08/13 04:21)
アトス山の静寂より――ハリストスの愛に生きる兄弟姉妹の皆様へ
主イイスス・ハリストス(主イエス・キリスト)の恵みと平和が、この文章をお読みになるお一人おひとりの心臓の中の霊(たましひ;プシュケー)に豊かに満ちあふれますように。
私は、ギリシャ正教会の聖山アトスの静かな隠遁の小庵におりまして、日々、聖師父たちの遺してくださった神聖な教え、わけても霊的な智恵の宝庫である『フィロカリア』を観想し、祈りの時を過ごしております。聖山を包む波の音と風のささやきの中で、私はいつも世にあって戦い、歩んでおられる愛する皆様のことを祈りの中に覚えております。
今回、皆様と共に紐解きますのは、『フィロカリア全巻』第2巻に収められた、7世紀の大いなる神学者であり、まことの信仰を命がけで告白された「克肖表信者 聖マクシム(聖マクシモス・ホモロゲテス)」の霊的な教えでございます。聖マクシムの遺された『愛についての100章句』や『神学と神の子の受肉した経済(経綸)について100章句』、そして『「主の祈り」の解釈』は、私たち修道者にとっても、また世俗のただ中でハリストスに従おうとする皆様にとっても、闇を照らす確かなともしびであり、属神°(ぞくしん;プネヴマティコス;聖神°(聖霊)の働き)に満ちた生きた生命の泉であります。
どうか、私のような至らぬ修道者の言葉を通してではなく、聖マクシムの背後におられる聖神°(せいしん;アギオン・プネウマ)のあたたかな光を感じ取り、皆様の頭の内の心(思考・感情;ヌース)が神の愛と知識へと引き上げられますよう、心よりお祈り申し上げます。
一、克肖表信者 聖マクシム――王宮の権勢を捨て、霊的戦いに入った真理の勇者
聖マクシムは、西暦670年頃にその地上の生涯を完成された父であります。彼はもともとコンスタンティノポリスの王宮において顕著な働きをし、皇帝の大書記官という世俗の極めて高い栄誉と地位におられました。しかし、世の権勢やはかない栄華が心臓の中の霊(たましひ;プシュケー)にまことの安息をもたらさないことを深く悟り、彼はそのすべてを捨てて修道生活へと身を投じました。
当時、教会には「モノテリテス(単意論者)」という誤った教え、すなわちハリストスには神としての意志しかなく人間の意志はないとする偏った悪徳(カキア)が蔓延しておりました。聖マクシムは、ハリストスが真の神であり真の人であられるからには、神としての意志と人間としての意志の双方が、不可分かつ混同されることなく存在すること(両意志論)を、命を賭して証しされたのです。この真理を告白したゆえに、彼は舌と右手を切り取られるという凄惨な迫害を受けましたが、その信仰の火は消えることがありませんでした。
聖賢フォティオスも述べているように、聖マクシムの文体は深く、超越的で、字義通りを超えた深い観想(セオリア)に満ちています。彼の言葉は、まさに「生命を流れ出させる神の聖なる書の泉」から直接汲み上げられたものであり、死んだ霊(たましひ;プシュケー)をも甦らせる甘美な水なのです。彼が遺した智恵は、現代の複雑な世界の中で生きる私たちの頭の内の心(思考・感情;ヌース)を、地の惑わしから解き放ち、天の国の市民として生きる道を示してくれています。
二、愛(アガペー)と不受動心(アパセイア)――霊(たましひ)を浄化する階梯
聖マクシムの『愛についての100章句』において、最初に明確にされるのは「愛」の真の定義であります。
「愛とは、心臓の中の霊(たましひ;プシュケー)の善き気質であって、それによって、神の認識以上にいかなる存在をも好むことがなくなります。」(第1集・1)
私たちは「愛」という言葉を軽々しく使いがちですが、聖マクシムが教える愛とは、単なる感情の動揺や人間的な好悪ではありません。それは、すべての地に属するもの、目に見える被造物以上に、神の認識(グノーシス)と神ご自身を好む心臓の中の霊(たましひ;プシュケー)の揺るぎない態度であります。そして、この確固たる愛に至るためには、霊的な成長の段階、すなわち「徳(アレテ;神への帰還)」の階梯を歩まねばなりません。
聖マクシムは次のような霊的階梯を示してくださいます。
【信仰】→【神への畏れ】→【節制】→【忍耐と寛大さ】→【神への希望】→【不受動心(アパセイア;情念からの自由)】→【愛】
ここで極めて重要なのが「不受動心(アパセイア;情念(悪魔・悪霊の思考・感情そして妄想)からの自由)」であります。不受動心とは、単に何も感じない冷淡な状態ではありません。それは、神から人間を引き離そうとする悪魔の不自然な働き、すなわち「情念(パトス;神に離叛させる悪魔・悪霊の思考・感情そして妄想)」から心が解放され、平穏と静けさを取り戻した状態のことです。この不受動心という清らかな土壌があってこそ、真の愛という花が咲くのです。
情念(パトス)にとらわれている間、私たちの頭の内の心(思考・感情;ヌース)は、肉体の欲望や金銭への執着、他者への怒りや恨み、虚栄心といった重荷に引きずり降ろされ、足を縛られた雀のように地へ落ちてしまいます。しかし、節制と祈りによって情念が取り除かれるとき、頭の内の心(思考・感情;ヌース)は翼を得て、被造物の限界を超え、神への愛へと飛び立つことができるのです。
三、頭の内の心(ヌース)の飛翔と純粋な祈り
正教会の霊性において、「頭の内の心(思考・感情;ヌース)」は、神を捉え、神の光を受け取る霊的な「眼」であります。聖マクシムは、このヌースが浄化されたときに起こる神との合一について、極めて美しく描写しています。
「太陽の光が健やかな目を引きつけるように、神の知識は自然と、愛をもって清い頭の内の心(思考・感情;ヌース)を自らに引き寄せます。」(第1集・32)
「愛の恋慕をもって頭の内の心(思考・感情;ヌース)が神へと移るとき、そのとき頭の内の心は、いかなる被造物についてもまったく感覚を持たなくなります。それは神の神聖にして無限の光によって照らされ、すべての被造物に対して無感覚となるからです。まるで太陽が昇るとき、目が星を見ないように。」(第1集・10)
このような飛翔を最も強く助けるのが「純粋な祈り」であります。頭の内の心(思考・感情;ヌース)が祈りの中で神の無限に触れるとき、預言者イザヤが「ああ、わたしはわざわいだ。わたしは滅びる!わたしは汚れた唇の人間であり…わたしの目が王なる主を見た」(イザヤ6:5)と叫んだように、自らの深き無価値さと微小さを深く悟り、大いなる感涙とともに謙遜へと導かれます。
この謙遜こそが、虚栄の悪霊を追い払い、神の光(神°(しん;プネウマ;神の生命の息吹))を留め続ける器となるのです。修行の目的は、自分が優れることではなく、神の無限の光の中で自己の誇りを滅ぼし、ただ神の恩寵に寄り頼む者となることにあります。
四、御言(ロゴス)の藉身(せきしん)と人間の神°成(テオーシス)
聖マクシムの神学の核心、そして東方正教会の救い観の頂点にあるのが、「御言(ロゴス;御子)の藉身(せきしん;無限の神が自ら圧縮して肉の心と体を纏って降誕した)」と「人間の神°成(しんせい;テオーシス;至聖三者の神の生命の内に一致・結合する)」の関係であります。
聖マクシムは力強く言い切ります。
「神の御言(みことば;ロゴス;御子)であり御父の御言が、人となられ人の子となられたのは、人を神とし、神の子とするためです。」(第2集・25)
神が無限のへりくだり(ケノーシス;虚成)をもって、私たちと同じ肉と血を纏い、人間の心と体を身に受けて降りて来られた(藉身された)のは、私たち人間を、神の生命、神の不滅性、神の光にあずからせ、「恩寵による神」とする(神°成;テオーシス)ためでした。
アダムの違反によって、人間の中に「不自然な情念(パトス)」と「快楽への執着」、そしてその結果としての「苦痛と死」が入り込みました。しかし、主イイスス・ハリストスは、快楽の種(人間的欲望)からではなく、聖神°(せいしん;アギオン・プネウマ)と生神女(神を生んだ女)マリヤの処女性から超自然的に身を受けられました。それゆえ、主は罪の快楽の負債を負うことなく、かえって私たちのために「不当な苦痛と十字架の死」を自ら買い受けられたのです。
主は、死をもって死を打ち砕かれました。快楽に由来しない主の死は、罪と死の毒を滅ぼす命の薬となったのです。ハリストスのこの受難と復活により、私たちの人間的本性には第二の誕生、すなわち属神°(ぞくしん;プネヴマティコス)的誕生の道が開かれました。洗礼と聖体機密を通じて、ハリストスは私たちの心臓の奥底(霊(たましひ;プシュケー))に秘かに宿り、私たちが戒めを守り、情念を殺していく度合いに応じて、私たちの内にご自身の生命を現してくださるのです。
五、隣人愛と「主の祈り(パテール・ヘモン)」の実践的な深み
神への高度な観想や神°学(セオロギア)も、もし「隣人への愛」を欠いているならば、それはすべて幻であり、悪霊の詐術にすぎないと聖マクシムは厳しく警告します。
「神を愛する者は、まだ浄められていない人々の情念(パトス)を不快に思ったとしても、あらゆる人を自分自身のように愛さずにはいられません。」(第1集・13)
「どのような人に対しても、どんな過ちのためでも、自らの心臓の奥底(霊(たましひ;プシュケー))のうちに、わずかでも憎しみを見出す者は、神への愛からまったく離れています。」(第1集・15)
真の愛は、善人だけでなく悪人をも、友だけでなく自分を害する敵をも等しく愛します。神がご自身の太陽を悪人にも善人にも昇らせ(マタイ5:45)、被造物のすべてを等しく慈しまれるように、徳(アレテ;神への帰還)を得た人は、すべての人を「同じ人間」として愛し、闇を歩む悪人を愚かさゆえの病として憐れみます。ハリストスが自分を殺す者たちのために祈られたように(使徒7:60のステパノのように)、敵のために祈り、その赦しを願うことこそが、神°成(テオーシス)の結実であります。
聖マクシムの著した『「主の祈り」の解説』において、この「赦し」は私たちの霊的救いと直結するものとして明かされます。
私たちが「我らの負債を赦し給え、我らも我らに負債ある者を赦すがごとく」と祈るとき、私たちは神に対して「私が隣人に接したように、神よ、私に接してください」という基準を自ら提示しているのです。もし私たちが隣人の過ちや侮辱を心の中に根深く抱き、恨みを捨てないならば、神の赦しの光も私たちの心に入ることができません。隣人を赦すことによって、私たちの心臓の中の霊(たましひ;プシュケー)は本性の分裂(自己愛による他者との対立)を脱し、神の和解の恵み(恩寵)を受け取る器となるのです。
また、主の祈りの「我らを試みにあわせず、悪しき者より救い出したまえ」という願いについて、聖マクシムは「試練には二種類ある」と教えます。一つは「意志による試練(快楽の誘惑)」であり、もう一つは「不本意な試練(病や苦難、迫害の痛み)」であります。主が「試みに遭わせないでください」と祈るよう教えられたのは、罪を生み出す「快楽の誘惑」のことであり、私たちはこれを全力で避けねばなりません。しかし、降りかかってくる「不本意な試練(痛みの苦難)」に対しては、ヤコブ使徒が語るように(ヤコブ1:2)、忍耐と感謝をもって受け止めるべきです。なぜなら、不本意な苦難は、私たちの心から快楽の毒を削り落とし、霊(たましひ;プシュケー)を清める神の慈悲深い治療薬だからです。
六、アトス山の密室から――現代を生きる皆様への実践的アドバイス
愛する兄弟姉妹の皆様。アトス山の静寂の中で祈る私から、日々の騒がしい世の中で戦っておられる皆様へ、聖マクシムの教えに基づく実践的な歩みの助言をいくつか贈らせてください。
1. 「頭の内の心(ヌース)」を不浄な思いで汚さないこと
日々の生活の中で、様々な情報や刺激、怒りや欲望の思いが頭の内の心(思考・感情;ヌース)に浮かんできます。思いが湧くこと自体は罪ではありませんが、それを心の中で温め、楽しんだり、恨みを反芻したりしてはなりません。思いが浮かんだらすぐに「主イイスス・ハリストス、神の御子よ、罪人なる私を憐れみ給え」という「イイススの祈り(心臓の祈り)」を唱え、ハリストスの御名によってその思いを追い払ってください。
2. 兄弟・隣人との和解を日没前に成し遂げること
聖マクシムは言います。「あなたの兄弟があなたのことで悲しんだまま眠りにつくのを許してはなりません。またあなた自身も兄弟への悲しみをもって眠りとしてはなりません」(第1集・53)。誰かに対して怒りや悲しみを抱いたなら、沈黙と謙遜をもって、まず自らの側に非があったと捉え、心の中で相手のために祈り、速やかに和解を求めてください。和解こそが、純粋な祈りの第一の条件であります。
3. 「快楽の追求」を捨て、「与えられた苦難」を感謝で受けること
世の風潮は、常に肉体の快楽や快適さを追い求め、少しの不便や痛みを悪として排除しようとします。しかし、私たちは食欲や過度の安楽を節制し、体に適切な労苦を与えることで、肉体を霊(たましひ;プシュケー)の従僕として仕えさせねばなりません。そして、病や不当な非難、思いがけない悲しみが訪れたときは、「主よ、私の罪の清めのためにこれをお与えくださり感謝します」と祈り、神の裁き(治療)として受け止めてみてください。そのとき、苦しみは霊(たましひ;プシュケー)の深い平和へと変わります。
4. 聖書の言葉を「文字(肉)」ではなく「神°(しん;プネウマ;霊)」として読むこと
聖書を読む際、単なる知識や批判的な頭だけで読むのではなく、心を静め、聖神°(せいしん;アギオン・プネウマ)の照らしを求めて祈りながらお読みください。表面的な文字(肉)の奥にある、生きている御言(ロゴス;御子)ハリストスご自身と出会うとき、聖書の言葉はあなたの霊(たましひ;プシュケー)を養う「天のパン」となります。
七、結び――恵みの光の中で
克肖表信者 聖マクシムの教えは、決して一部の修道者だけのものではありません。それは、ハリストス(キリスト)を信じ、神°成(しんせい;テオーシス)への道を歩むすべてのハリスティアニン(クリスチャン)に開かれた、救いの青写真であります。
神は、私たちがただ地上で表面的に道徳を守るだけでなく、神ご自身の生命にあずかり、神の愛と知恵と不滅性を満たされ、この世界において天使のように生きることを望んでおられます。どれほど私たちが弱く、罪深く、倒れやすい存在であったとしても、絶望する必要はありません。私たちが心から悔い改め、互いに愛し合い、一歩一歩、神の戒めを守る努力を始めるなら、私たちの内に住まわれるハリストスご自身が、ご自身の力によって私たちを引き上げ、勝利者としてくださいます。
アトス山のこの小庵より、私は絶えず手を挙げ、皆様の上に至聖三者(父と子と聖神°)の豊かな祝福と恩寵が降り注ぐよう、祈り続けております。
どうか、お互いのために祈り合いましょう。この一時的な生(せい)の戦いを終えたとき、私たちが天のエルサレムにおいて相まみえ、神の計り知れぬ光と歓喜の中で、永遠に聖三位一体の神を讃美することができますように。
主・イイスス・ハリストスの恵み、神・父の愛、聖神°(せいしん;アギオン・プネウマ)の交わりが、皆様全員と共にありますように。アミン(アーメン)。
始まりのための終わりの時代だからこそ、
読書と祈りで、
自分自身と神との関係を見つめ直してみませんか。
フィロカリア 神の徳(アレテ;神への帰還) を 愛する者たちの書 第1巻: 聖なる目覚めの人々(内的な目覚め・慎しみの修道者たち)
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『見えない戦争:主・イエス・キリスト、我を憐れみ給へ!;神に依り頼む、悪魔の見えない攻撃から、勝利する方法 ・イエスの祈りによる勝利・聖神°から生きる勝利』
(コーカサスの山々)イエスの祈り;遥かなる今此処に在る静寂の青き山:主・イエス・キリスト、我を憐れみ給へ!;イエスの祈りに依る見えない戦争の勝利
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まりや ひかり すべての本
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