フィロカリア全巻解説:第2巻 霊(たましひ;プシュケー)が打ち砕かれる修行をする人々:第5章 アバ・フィレモン (2026/08/20 04:20)
はじめに――静寂の山アトスからの祈りとご挨拶
主・イイスス・ハリストスの恵みと愛が、この教えを心に留める皆様の上に豊かにありますように。ギリシャ正教会のアトス山の静寂の庵より、主にある感謝と親愛を込めて筆を執らせていただきます。
正教の霊的生活の至宝である『フィロカリア』のなかでも、第2巻に収められた「アバ・フィレモン」の教えは、祈りと静寂、そして絶えざる霊(たましひ;プシュケー)の覚醒(ネープシス)を志す者にとって、夜を照らす灯火のように純粋で力強い光を放っています。アバ・フィレモンが生きた年代は詳らかではありませんが、彼が砂漠の偉大な師父アルセニオス大師の正当なる跡を継ぎ、生涯をかけて神との合一を求めた真の隠遁修道者であったことは、その言葉の一つひとつから鮮やかに伝わってまいります。
現代という慌ただしい時代にあって、私たちはどのようにして「頭の内の心(思考・感情;ヌース)」を守り、主の愛の光のうちに留まることができるのでしょうか。アバ・フィレモンが遺した属神°(ぞくしん;プネヴマティコス;聖神°(聖霊)の働き)に満ちた言葉を通して、私たちの心臓の中の霊(たましひ;プシュケー)を清め、神へと帰還するための実践的な学びを、共にご案内してまいりましょう。
アバ・フィレモンの肖像――徹底した隠遁と自己の無化
アバ・フィレモンは、洞窟に籠もり、昼夜を問わず祈りと嘆願を捧げ続けました。彼は偉大なるアルセニオス大師の言葉、「フィレモンよ、何のために世を去ったのかを忘れるな」を常に頭の内の心(思考・感情;ヌース)で繰り返し、世俗の虚栄や安逸に流されることを徹底して退けました。
彼の生活は極めて簡素なものでした。自ら籠を編み、それを修道院の管理者に渡してわずかなパンと塩を得るだけで、肉体の欲求を顧みることはありませんでした。彼が何よりも大切にしたのは、神への観照(セオリア)であり、天上の奥密(神°秘)へと導かれる神聖な照らしでした。毎週土曜日と日曜日に教会へ赴く際にも、誰にも近づかず、自らの頭の内の心(思考・感情;ヌース)を属神°(ぞくしん;プネヴマティコス)的な働きから逸らさぬよう細心の注意を払い、絶え間ない涙と死の記憶をもって祈っていたのです。
彼は世間の無益な事柄や雑談を徹底して避けました。ある兄弟が遠方へ出かけるときも、帰ってきたときも、「どこへ行っていたのか」「何があったのか」と尋ねることすらありませんでした。また、日々の糧であるパンが何日も運ばれなくとも、不平を言うことも催促することもありませんでした。「霊(たましひ;プシュケー)が耐えるかぎり、わたしの身体もまた耐える」と語り、ただひたすらに善なる神への観照(セオリア)に留まり続けたのです。
静寂が生み出す霊的階段――清めから無情念(アパシース)へ
アバ・フィレモンは、弟子となったパウリノスに対し、完全な静寂なしには神に喜ばれることは不可能であると説きました。彼は、アバ・モーセの霊的洞察を引いて、霊(たましひ;プシュケー)が神へと昇りゆく階段を次のように美しく解き明かしています。
「静寂は修行を生み、修行は涙を生み、涙は畏れを生み、畏れは謙遜を生み、謙遜は予見の賜物を生み、予見は愛を生み、愛は心臓の中の霊(たましひ;プシュケー)を健やかにし、無情念(アパシース;悪魔・悪霊の思考・感情そして妄想の無いこと)にするからです。そしてそのとき、人は神から遠くないことを知るのです。」
私たちの頭の内の心(思考・感情;ヌース)は、感覚的な対象に触れることで容易に散漫になり、情念(パトス;神に離叛させる悪魔・悪霊の思考・感情そして妄想)によって曇らされてしまいます。しかし、静寂を通して情念(パトス)を脱ぎ捨てるならば、頭の内の心(ヌース)は知性的なもの、すなわち神の御言(ロゴス;御子)に属する理知的(ロギカ)な美を観照するようになります。そうして存在の本質の知識を超え、神ご自身と結び合わされるのです。
神と結合した頭の内の心(ヌース)は、王権の位を持つがゆえに、もはや地上の低俗な欲望に惑わされることはありません。たとえ全世界の王国を与えられたとしても、揺らぐことがなくなるのです。
「隠れた黙想」と絶えざるイイススの祈り
ある日、イオアンニス(ヨハネ)という兄弟がフィレモンのもとを訪れ、「私の頭の内の心(思考・感情;ヌース)があちらこちらと彷徨い、ふさわしからぬ物事に耽ってしまいます。救われるために何をなすべきでしょうか」と涙ながらに問いました。
長老フィレモンは、それは世俗の病であり、神への熱い渇望がまだ欠けているからだと告げ、その治療法として「隠れた黙想」を授けました。未熟な兄弟が「隠れた黙想とは何でしょうか」と尋ねると、アバは次のように答えました。
「行って、あなたの霊(たましひ;プシュケー)に目覚め(ニープシス)を保ちながら、『主・イイスス・ハリストス、我を憐れみ給へ』と、畏れと戦慄のうちに、注意深くあなたの頭の内の心(思考・感情;ヌース)の中で唱えなさい。」
この教えこそ、正教の修道生活の中心を成す「イイススの祈り」の真髄です。アバ・フィレモンは、食事をするときも、飲むときも、人と語るときも、道を歩むときも、あるいは夜の眠りに就くときでさえも、決してこの祈りを頭の内の心(ヌース)から手放してはならないと強く戒めました。
祈る際には、口先だけで唱えて頭の内の心(ヌース)が他所を彷徨うことがないよう、深い覚醒(ネープシス)と集中をもって、心臓の奥底(霊(たましひ;プシュケー))に祈りの言葉を刻み込まねばなりません。かつてフィレモンを訪れたある長老は、主の祈りである「主・イイスス・ハリストス、我を憐れみ給へ」が霊(たましひ;プシュケー)の奥底に妨げなく刻まれるよう二年間も全霊で祈り続け、主からその賜物を授かったと証言しています。
詩篇の甘美さと睡眠における心の守護
アバ・フィレモンは、イイススの祈りとともに、詩篇の朗唱を深く愛しました。兄弟から「なぜ聖書のなかでも詩篇をことさらに愛されるのですか」と尋ねられた際、彼は謙遜をもってこう告白しています。
「神はこの卑しき私の霊(たましひ;プシュケー)のうちに、預言者ダビデと同じく、詩篇の力を注がれました。私はそれらの内にある多様な観照(セオリア)の甘美さから離れることができないのです。詩篇の中には、神の聖なる全書が含まれているのです。」
彼は夜を徹して詩篇を静かに詠唱し、福音書を読み、その後、腰を下ろして「主・イイスス・ハリストス、我を憐れみ給へ」を唱え続けました。そして睡眠時における霊の守りについても、具体的な教えを与えています。
眠りの中で空しい幻想や悪しき思いに襲われることを防ぐためには、床に就く直前に熱心に祈りを献げ、詩篇や聖なる言葉を黙読しながら眠りに入ることが不可欠です。祈りの言葉を伴って眠りに就くならば、眠りの中にあってもその言葉が私たちを守り、目覚めたときに神の光をもって語りかけてくれるからです。また、就寝前には正しき信仰の源である聖なる信経(信仰告白)を唱えることを勧めました。
悪霊の誘惑との戦いと不受動心(アパスイア)の港
アバ・フィレモンは七十年以上にわたり荒野で暮らし、悪魔からの激しい誘惑や攻撃に耐え抜いてきました。彼は、ヨブ記に記された巨大な怪物レビヤタンの描写を引きながら、私たちが戦っている敵がいかに恐るべき強大な存在であるかを語ります。しかし同時に、神の御言(ロゴス;御子)の御手が支えてくださるならば、荒野で世を離れ、徳(アレテ;神への帰還)に生きる者は容易にこれに打ち勝つことができると励ましています。
情念(パトス;神に離叛させる悪魔・悪霊の思考・感情そして妄想)との戦いにおいて、もし戦いが長引き、心がくじけそうになったときは、全霊を神の御前に投げ出し、「主よ、我を虐げる者らを裁き給え。わたしには彼らに打ち勝つ力がありません」(詩篇34:1参照)とへりくだって叫ぶべきです。神はその謙遜をご覧になり、速やかに御助けを送ってくださいます。
こうして試練という炉で鍛えられた霊(たましひ;プシュケー)は、やがて不受動心(アパスイア;頭の内の心(思考・感情;ヌース)を、霊(たましひ;プシュケー)に沈着させ不動にし、情念(パトス)の影響を受け無いようにする)という静かな港へと至ります。霊(たましひ;プシュケー)が肉体の情念(パトス)から完全に清められ、神°(しん;プネウマ;神の生命の息吹)によって高められるとき、人全体が属神°(ぞくしん;プネヴマティコス)的となり、聖神°(せいしん;アギオン・プネウマ)の宮となるのです。
聖なる奥密(神°秘)と神°学(セオロギア)の至福
アバ・フィレモンは、長年司祭職に就いていましたが、聖なる奉神礼(聖体礼儀)のあまりの神聖さと荘厳さに畏れを抱き、軽々しく聖餐台に近づくことをしませんでした。彼は、聖体礼儀において教会が聖なる天使たちで満ちており、栄光の王キリストご自身が臨在され、パンと葡萄酒が主の尊体と尊血に変えられている奥密(神°秘)を、霊の内なる目でまざまざと見ていたのです。
彼は「聖なるものは聖なる者に与えられる」という司祭の声を聴くたびに、深い畏れと悔悛の涙をもって臨みました。私たちは、世の汚れを離れ、清らかな頭の内の心(ヌース)をもって、この光輝くハリストスの秘跡に与らねばなりません。
アバ・フィレモンが示した霊的歩みの頂点は、神°学(セオロギア;神との交わりから生まれる救いの道)と神°観照(神を想い観て、神に照らされ、神の光の中に溶け込み、神と一致する)です。聖グレゴリオスが教えるように、実践的な徳の修行こそが私たちを神°観照へと引き上げます。頭の内の心(ヌース)が情念(パトス)から解放され、聖神°(アギオン・プネウマ)の光で満たされるとき、霊(たましひ;プシュケー)は言葉を絶する神聖な美の稲妻に打たれ、「わたしは愛に傷ついた」(雅歌5:8)と告白する至福の境地に至るのです。
現代に生きる私たちへの実践的結び
アバ・フィレモンの教えは、砂漠の隠者だけのものではなく、現代の世にあって主を愛し、救いを求めるすべてのキリスト者に対する確かな指針です。私たちが日々の生活の中で実践できる要点を、愛を込めて振り返りましょう。
- 絶えざる覚醒(ネープシス)の保持:日々の営み(仕事、食事、会話、歩行)のただ中にあっても、頭の内の心(思考・感情;ヌース)を外の雑念に放縦させず、心臓の奥底を見張りましょう。
- イイススの祈りの実践:「主・イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給へ」という短い祈りを、息を通わせるように絶え間なく心の中で唱え続けましょう。
- 朝夕と就寝前の祈り:詩篇や聖なる言葉を心に満たし、信経を唱えて床に就くことで、夜の闇や悪しき幻想から霊(たましひ;プシュケー)を護りましょう。
- 無益な会話の回避と謙遜:他者の噂話や世俗の虚栄から離れ、自分の罪だけを見つめて悔悛の涙を流し、自らを誰よりも低い者とみなしましょう。
- 聖体礼儀への畏れに満ちた参与:ハリストスの尊体と尊血をいただく際には、深い悔悛と純潔な心をもって臨み、天上の天使たちと共に神を迎え入れましょう。
愛する兄弟姉妹の皆様。私たちの霊(たましひ;プシュケー)は、神の肖像(イコン)として造られ、神°(プネウマ;神の生命の息吹)を注ぎ込まれる尊い器です。地上のささやかな労苦と試練を通じて、情念(パトス)の汚れを洗い流し、新しき人となってハリストスの光をまといましょう。
皆様の歩みが、アバ・フィレモンの祈りと聖神°(アギオン・プネウマ)の恵みによって豊かに支えられ、常に主の愛と平安のうちに守られますよう、アトス山の静寂より心よりお祈り申し上げます。
主・イイスス・ハリストス、神の子よ、我ら罪人を憐れみ給へ。神に感謝と栄光が世々にありますように。アミン。
始まりのための終わりの時代だからこそ、
読書と祈りで、
自分自身と神との関係を見つめ直してみませんか。
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クリスチャン ヨシュア すべての本
まりや ひかり すべての本
イエスの祈りの動画はこちらからご覧いただけます。
イエスの祈り:YouTube
イエスの祈り:Substack
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